なりゆき読書室

面白い本を読んだ感動を徒然なるままに書きます。本格ミステリ、美術関係図書が多め。なりゆきで色々読んでいきます。時々、見に行った展覧会のことも。要するに雑記。

大木裕之展 現代子 於・高松市塩江美術館

高松市塩江美術館に初上陸。大木裕之展を見てきた。

http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/23846.html

展示室に入るなり、このアーティストの展示空間の使い方に衝撃を受けた。そこは言ってしまえば、ただひたすら散らかった部屋。美術館の展示室と呼ばれる空間を大きく逸脱していることが一目見て分かった。

散乱する作家個人の記録、ゴミ?、衣服、建物の図面のようなもの、その他がらくたect、その中にぽつりぽつりとならべられるディスプレーには大木さんの撮影した映像作品が流されている。壁には十代に描いたという油絵もかかっていたがキャプションのようなものは見当たらない(あったのかも知れないが、全くと言って良いほど存在感がない)。展示されている内容の年代はほぼアーティストの活動の全てに渡っていたと言って良いし、散らかっている作品以外のものたちもまた、長い時間を越えてこの部屋にたどりついたものばかりだ。

映像作品は撮りためた映像の断片をせっかく編集でつないでひとつの作品にしているはずなのに、この雑然とした空間にあっては鑑賞者がそれらを腰を据えて見るということは不可能に近い。映像たちは再び断片に分解され、空気中に溶け出してしまっているような印象を受けた。

私のような凡人の理解を越えているにもかかわらず、私はこの部屋から目が離せなかった。結局2時間ほど滞在。部屋全体に大木裕之さんという人間そのものが詰まっていて、それゆえに見ても見尽くせない魅力がこのインスタレーションにはあった。

この型破りな展示を見て私が何より考えさせられたのは、一般的に美術館で私たちが出会う作品たちがいかに「展示室」という既成の、お行儀の良い空間で、凝視されるために準備されているのかということ。それは美術館やギャラリーで展示を考える人間が作品を無理やり「展示室」の枠にはめている側面もあれば、制作者側の意識もまた「展示室」に無意識に飼いならされているという部分もあるのではないか。

本来の人間の創造的活動って、そんなものに捉われる必要はあるんだろうか?今後の美術館ってどうなるんだろう?そんなことを考えさせられる展示でした。